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[No.13]  ひまわり娘・伊藤咲子  (上)


♪だれのために咲いたの それはあなたのためよ〜♪と「ひまわり娘」で伊藤咲子さんが歌謡界にデビューしたのは、1974(昭和49)年4月20日、高校入学直後の16歳になったばかりの時だった。

デビュー曲のタイトルそのままに、底抜けに明るい笑顔の少女は、伸びのある歌声の実力派アイドルとして、たちまち人気者となった。

その咲子さんの父方、母方それぞれの祖父母は、山形市の出身だった。父方の祖父は、福岡県の大学教授、母方の祖父は、譜面を書く写譜を仕事としていたので、両家とも山形を離れていた。戦時中、咲子さんの父・敞久(たかひさ)さんと母・文さんが、疎開先の山形市で出会い恋に落ち、1947年に結婚し、そのまま山形市で暮らし始めたのだった。咲子さんの10歳上の兄・仁久(よしひさ)さんと9歳上の姉・依子さんは、山形市立第一小学校に入学している。

クラシック音楽をこよなく愛する父は、妻の父と同じ写譜を生業(なりわい)とするために、1955年ごろ、一家で東京に移り住む。咲子さんは、伊藤家の東京での暮らしが定着してからの、1958年4月2に目黒で誕生したのだった。誕生した病院の庭では、満開の桜が咲き誇っていた。母・文さんは、その桜にちなみ「桜子」と名付けようとしたが、芸能人のようだという理由で周囲に反対され、それではと名付けた「咲子」が、そのまま芸名となったのだから面白い。

家庭では、いつもクラシック音楽が流れていた。そして姉・依子さんは声楽家を志し、大学で学んでいた。幼い咲子さんが、音楽好きになるには絶好の環境で、歌うことが大好きな女の子になっていた。教会の聖歌隊で歌っていた幼稚園のころから小・中学校を通じて、歌の上手な子として、ひときわ目立つ存在だった。

咲子さんが中二の1972年、日本テレビの「スター誕生」が始まる。この番組から、同じ13歳の森昌子が「せんせい」でデビューする。当時、中学生が歌手になれるとは誰も思わなかった。テレビに映る森昌子を見て、友人たちが「伊藤ちゃんも歌手になれるよ。スタ誕に出るべきだよ」と強く勧めた。

自分が歌手になれるとは思わなかったが、なりたいという漠然とした思いを抱いていた咲子さんは、「スター誕生」挑戦を決意する。音がよく反響する学校のトイレを練習場に、休み時間は友人たちを前にミニコンサート。「うまいねえ、やっぱり伊藤ちゃんは歌手になるしかないよ」と背中を押される。

「スター誕生」最初の挑戦曲は、小柳ルミ子の「漁り火恋歌」。千人以上の予選参加者の中から決勝進出の十人に選ばれ、テレビ放送の本選出場なるが、あえなく落選。ほとんどファルセットで歌うこの演歌調の曲は、当時の彼女には合わず、選曲ミスだった。しかしこんなことでめげる彼女ではなかった。二度目のチャンスはすぐに巡って来た。今度はパンチの効いたポップス、朱里エイコの「見捨てられた子のように」。一度目に続いて、中三の女の子とは思えぬマニアックな選曲だが、文句なしに本選を突破する。

グランドチャンピオン大会では、余すことなく力を発揮し、数多くの芸能プロダクションからスカウトを受け、ついに歌手への道が開ける。中学生活も終わろうとしていた。

「ひまわり娘」で華々しいデビューを飾ったあとも、「夢見る頃」「木枯らしの二人」「乙女のワルツ」「きみ可愛いね」とヒット曲を連発し、スタ誕出身で同学年の先輩、森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花のトリオ」に追いつき追い越す勢いで、紅白歌合戦にも18歳の時に出場を果たす。ところが、この辺りをピークに、人気に陰りが見え始めてきた。ピンクレディー旋風、同じ年の実力派アイドル・岩崎宏美の台頭、そして松任谷由美・中島みゆき・竹内まりや・渡辺真知子らニューミュージック系女性歌手たちの大躍進…。さまざまな要因が重なり、笑顔と明るさがチャームポイントの実力派アイドルは、進むべき方向を迷い始める。

長い低迷期が続いた後、久しぶりにこれぞという曲に出合う。リッキー・シュロイダー主演の映画「小公子」のイメージソング、「リトルプリンス」(1982年)だった。アイドル時代に経験したことのなかった地方の有線放送回りもして勝負をかけたが、結果は出なかった。


2005年1月14日 「ひまわり娘・伊藤咲子 上」


(後編に続く)