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[No.11]  故 相米慎二監督の最後の弟子・冨樫森さん


映画監督・冨樫森さんは、2001年に「非・バランス」、’02年「ごめん」、’03年「星に願いを」と毎年コンスタントに新作を発表して、今や売れっ子監督の一人となった。

冨樫監督は1960年3月、藤島町に生まれる。実家は兼業農家。豊かな自然のなかで伸びやかに育った。小学生のころから、スポーツ少年団で剣道を始め、地元中学、鶴岡南高校、立教大学と剣道部一筋に過ごす

映画との出会いは、子供のころのテレビ洋画劇場だった。そして、夏休みと正月に「大魔神」や「男はつらいよ」などを鶴岡市の映画館に家族で見に行く程度。映画は好きだが、取り立てて夢中になったという意識はなかった。

夢中になったのは立教大学に進学してからのこと。東京大学の蓮実重彦教授(元東大総長・映画評論家)が週1回担当していた「映画表現論」の講義だった。蓮実教授の講義は、映画を見ようという気にさせてくれ、見れば面白いので、また見たくなり、そしてまた見るという好循環を生み出し、年間300本は見ていた。ちなみに、周防正行、黒沢清、水谷俊之、青山真治、森達也ら今をときめく映画監督たちも蓮実教授に扇動されたくちである。

「どうせ働くなら、一番好きな映画の世界に」と、大学を卒業後、剣道部の先輩の知人の紹介で、当時、一般映画の企画を推進していた周防らピンク映画の若手監督五人衆「ユニット・ファイブ」の助監督として入り込む。

映画を見まくっていた学生時代、相米慎二監督の「翔んだカップル」(’80年)「セーラー服と機関銃」(’81年)と出会い、「こんな映画を一緒に作りたい」と相米監督への憧(あこが)れを抱き、この監督の下で助監督をしたいと熱望していた。

チャンスは2年目に巡ってくる。先輩助監督が、相米監督の次回作のチーフ助監督を務めると知り、その先輩に頼み込み、まんまと相米組の助監督に加えてもらうことに成功する。

「俺(おれ)は、相米組の助監督だぞ!」と日活撮影所の食堂いっぱいのスタッフに向かって叫びたい衝動に駆られるほどの喜びだった。作品は「台風クラブ」(’84年)。こんなに面白い現場があるんだと、丸太で頭を殴られるほどの衝撃を受ける。相米監督は、そのパートの人間が最良と判断したことならほとんどOK、任せてくれた。だから監督からどんなに辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせられようと、現場で働くことが楽しかった。

相米作品では、この後「ラブホテル」(’85年)「光る女」(’87年)の2本に付いたが、その後は「かわいいひと」(’98年)まで待たねばならなかった。それは、相米監督が総監修を務める3話のオムニバス映画。冨樫さんはこの第2話で監督デビューを果たす。

相米監督に抜擢(ばってき)されたこの「かわいいひと」が、冨樫監督の名刺代わりとなる。その演出力が認められ「非・バランス」「ごめん」「星に願いを」と監督作が続くことになる。

これらは、少女や少年の成長の物語と、ラブ・ファンタジー。みな主人公の内面が丹念に描かれ、彼らの魅力が最大限に引き出され、輝いて見えてくるという共通点を持つ。それは相米作品と通じるものだった。

相米監督と一緒の仕事には10年以上のブランクが空いた。その間も現場を手伝ったり、酒を飲んだり、引っ越しを手伝ったりと公私のない師弟関係はずっと続いていた。

この師匠であり、父親的存在でもあった相米監督が、3年前の9月9日、肺がんのため突然逝ってしまう。53歳の若さだった。相米監督のことを話す時、冨樫監督の目は輝きを増し、その口ぶりからは敬愛の思いが満ちあふれる。

「てめえの家の引っ越しなのに、自分は何もしないで俺たちに全部させて、自分はたばこ吸って酒飲んで、まだか?ですからねえ」とあきれたように言いながら も「でも、使いっパで、何で俺がこんなことやらなきゃならないんだって思ったりもするけど、やっぱり使ってもらえるのが、声をかけてもらえるのがうれし かったですねえ」と目を潤ませながら語る。

師匠に作品を見てもらえたのは「非・バランス」までだった。面と向かって褒められたことは一度もない。ただ、相米監督が趣味にしていた囲碁の先生には「今度、俺の最後の弟子が、冨樫っていうんだけど、映画を撮ったんだよねえ。これが、いいんだよ」と自慢げに語っていたという。

次回作は、実写版「鉄人28号」。今年、流行したかつてのアニメヒーローのリメーク作とは一線を画し、鉄人を操縦する金田正太郎少年の成長譚(たん)となっている。それは、まさしく冨樫監督ならではのもの。正太郎の母親役には、監督を志すきっかけとなった相米作品のヒロイン・薬師丸ひろ子を迎えている。本人は、すでに完成している作品を「なんのてらいもない直球ですよ。不器用ですから、育ってきたやり方でしかできないんです」と言う。

「冨樫、いいもの撮るようになったなあ。早く次も見せろよ」。相米監督の声が聞こえた気がした。


 2004年9月14日 「故相米慎二監督の最後の弟子・冨樫森さん」