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[No.09]  山形のルディ・井上治さん(みちのくプロレス)


映画「ルディ」は、幼いころから、米国の名門ノートルダム大学の強豪フットボールチーム でプレーすることを夢見て育った若者が、「小柄」「勉強ができない」「貧しい」という、夢の実現からは程遠い状況下で、教師や同級生に嘲笑(ちょうしょ う)されながらも、驚異的な努力と粘り、ガッツで夢をつかみ取った 感動の物語で、大好きな映画である。これはルディ・ルティガーという人の実話というから驚く。


最近「山形のルディ」とも言うべき若者と出会った。彼の名は井上治。みちのくプロレス所属のプロレスラーである。彼は、1983年4月9日米沢市に、先天性巨大結腸症という病気を抱えて生まれ、間もなく人工肛門をつける。それは、一歳前後 で取り外すことになるが、時々夜中に腸閉塞(ちょうへいそく)を起こしては、苦悶(くもん)した。

両親は、そのつど車で治を、米沢市の自宅から山形市の山形大学医学部付属病院まで運び込んだ。そのまま1〜2週間入院ということを何度も繰り返した治は小学六年まで特別障害者として過ごすが、だからといって、ずっと病床に臥(ふ)していたわけではなかった。
小学一年の時は、半年だけだが、柔道に取リ組み、四年生からは、スポ少で野球に打ち込む。結腸症であることを除けば、他の子たちと何ら変わらない運動好きの 少年だった。変わっているところがあるとすれば、この世代には珍しく、無類のプロレス好きということだ。

われわれのころとは違い、全日本も、新日本も、プロレス中継はゴールデンタイムから外れ、深夜枠に移ったために、子供の目に触れることはほとんど無くなっていた。そんな治がなぜ? それは父親の影響だった。力道山以来の筋金入りのプロレス好きの父親は、どんなに忙しくても両団体の中継をビデオに録画して、毎週必ず見ていたのである。その傍らにはいつも治がちょこんと座っていた。このころから、治は、日本人離れした体格と強さを併せ持ったジャンボ鶴田に憧(あこが)れを抱くようになる。病気のため極端に食が細い彼は、 華奢(きゃしゃ)で小柄だったが、上郷小の卒業アルバムに、将来の夢を「プロレスラーになる」と書いている。しかし、この時点でこの少年が将来プロレスラーになろうとは、誰一人思っていなかった。


上郷中(現・米沢七中)に進むと、入学式を欠席して腸閉塞のために入院、都合3回の手術で腸を40cm摘出する。在学中は野球部に所属。2年秋からは、主将兼2塁手として活躍する。野球は好きだったが、治にとってはプロレスラーになるためのプロセスにすぎなかった。

三年の夏休みに、治は全日本プロレスの日本武道館大会に出かけ、ジャイアント馬場夫人・元子さんに入門を直訴。ちなみに、彼の背中を押したのは父親だった。ところが「高校に行ってアマ レスを経験してから来なさい。」と元子さんに諭される。当時、治は160cm、40kgそこそこの小さな体だったので、傷つけまいという配慮だったと思われる。

勉強ぎらいで高校進学などまっぴらだった治は、元子さんの言葉に俄然(がぜん)やる気を出し、レスリング部のある米沢工業高を目指し猛勉強をして、見事合格する。高校ではレスリング三昧(ざんまい)の日々。すべてはプロレスラーになるためだったので、勝敗にはこだわらず、戦績は芳(かんば)しいものではなかった。

勉強を全くしない治に、担任教師が「何のために学校にきてるんだ」と問いかけると「レスリングをするためです」と即答した、その間、尊敬するジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の両選手が他界。このころから、治は、ターゲットを「みちのくプロレス」に絞り、興行先へ何度も足を運び、代表のザ・グレート・サスケに入門を直訴する


高校では、担任はじめ周囲の先生も、プロレスラーは無理だからと一般企業への就職を勧めた。それは、至極当然で私でもそうしたろう。ところが、いくら担任から求人票を勧められても、求人票はそのままくずかご行きだった。 そして、高校3年の2月、入門テストを受け、みちのくプロレスに晴れて合格。卒業後、2002年3月14日練習生として正式に入門し、昨年10月4日福島でプロレスラーとして待望のデピューを果たす。

病気が完治したわけではなく、相変わらず食は細く、70kg足らずの体重はプロレスラーとしてはいかにも軽い。現在の戦績は、約50戦して文句ない勝利はまだ1つだけ。


他人がどう思おうと、何を言おうとも、幼いころからの夢に向かって突き進み、夢をつかみ取った治の次の目標は、強いだけでなく観客を魅了するレスラーになること。 「どんなにキツくても、苦しくても、好きなプロレスのためだから楽しい」と語る彼は、父・肇さん、母・智子さん、姉・啓子さんへの感謝の思いを忘れることはない。


 2004年6月22日 「山形のルディ・井上治」