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[No.05]  峯田和伸と須貝智郎 (下)

 南陽市で農業を営みながら、歌を作り歌い、自らを"百姓フォークシンガー"と名乗る清水篤郎は「土を耕し、米を作って生きでるおれだぢは、世の中が、どんなふうになろうども生ぎ残れる」というポジティブ・シンキングで、"大日本生き残り隊"なるものを結成し、共同生活を送っている。

 隊員は、頭取と呼ばれる中年紳士、気弱な元教師、議員秘書だったらしい高慢な男、美しく上品なマダムという呼び名の女性など多様だが、皆、心に傷や闇を抱えていた。そこに東京から駆け落ちしてきた若いカップル、慎二と友美が転がり込んでくる。パンクロッカーの慎二は金髪を逆立てたヘアスタイルをアイデンティティーにし、友美はそんな慎二がかっこいいと思い込んでいる。親の世代の篤郎たちと、異星人のような二人が果たしてうまくやっていけるのか? そしてダサイと嫌っている農業をやれるのか?

 映画「おにぎり」はこのような扉を開けると、あとは観客に、日ごろ当たり前に食べている米に、どれだけ手間暇と愛情が注がれているかを示し、同時にさまざまな小さな命の輝きの姿を映すことにより"生命の大切さ""生きることの素晴らしさ"という当たリ前だが、なおざりにされていることに気づかせてくれる。



 永島敏行、松原智恵子、浅茅陽子らはさすがと思わせる名演。若いカップル役の吉永雄紀と大貫あんりは、二人の俳優、人間としての成長が、慎二と友美に重なリ、今後に期待大。そして地味な題材ながら、南陽市を舞台の中心に据え、時には資金難という壁にぶつかりながらも不屈の想(おも)いで、それこそ、丹精込めて米を作るように、映画を完成させた斎藤耕一監督にエールを送りたい。

 大切な人を忘れていた。篤郎役の須貝智郎である。彼は驚くほど"須貝智郎"のまま、伸びやかで、底抜けに明るく、泥くさく、力強くそして温かかった。間違いなく「おにぎり」の太い幹であり、けん引車だったといえる。「おにぎり」の須貝智郎と「アイデン&ティティ」の峯田和伸。相前後して公開された2作品で、初演技ながら主演を見事に務めたこの二人には共通点が多い。

 須貝は南陽市で農家を営む家の長男として昭和28年に、峯田は山辺町で電器店を営む家の長男として昭和52年に、共に跡取り息子として生まれ育つ。須貝は赤湯園芸高校を卒業した秋に群馬県草木ダムの工事現場に出稼ぎに行く。そこでの、危険でつらい仕事の合問に作業員宿舎のラジオから流れてきた岡林信康の「山谷ブルース」に感動し、歌にひかれ、ギターを買い、歌を作り、歌うようになる。

 片や峯田は野球少年で、山形商業高校の軟式野球部で投手兼三塁手として活躍。足腰を鍛える目的もあり、三年問山辺町から自転車で通う。ブルーハーツなどは好きで聴き、自転車をこぎながら大声で歌っていたが、バンドとは縁遠い生活を送る。東京情報大学(千葉県)に進学し、愛知県出身の浅井威雄と出会う。当時、ギターとドラムをこなしていた浅井と意気投合し、山形時代の友人二人も加え「ゴーイング・ステディー」というバンドを結成。 須貝も峯田も思い立ったらすぐなのである。

 曲を作り、ボーカルも担当する峯田はバンド活動に熱中、この時点で家業を継ぐ気などサラサラなくなっていた。そしてインディーズながらCDデビュー。4枚目のシングル「童貞ソー・ヤング」はインディーズ初のオリコン3位となるヒット。こうなると、反対していた父も認めざるをえず、家業の後継は二男に託すようになる。

 須貝は岡林だけでなく、加川良などをよく聴いた。若い峯田も大学に進んでからは、遠藤賢司、三上覧、「結婚しょうよ」以前の吉田拓郎らを好んで聴くなど、二人とも、1970年前後のフォークソングの影響を受けるが、ボブ・ディランを尊敬し強く影響を受けているのも同じだった。須貝は絵本も手がけるほど絵がうまく、昧のある字も書き、映画「おにぎり」の題字も彼の手によるものだが、峯田もCDの表紙絵や文字を自分でかく。

 そしてコンサートのトークは、二人とも山形弁そのままで屈託なく喋(しゃべ)る。生活に根ざした歌を作り、歌い、絵を描き、喋る。総合表現者の二人にとって"演じる"ということは初めてではあっても、たやすいことだったのかもしれない。今日で51歳になった須貝は将来もずっと地元南陽市を拠点にし、「ゴーイング・ステディー」解散後「銀杏BOYZ」の活動を始めた峯田も、常にインディーズ・スピリッツを抱きながら、ディランの名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」ではないが、転がる石のように走り続けることだろう


 2004年1月23日 「峯田和伸と須貝智郎 下」