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元気な子供 〜うれしい出会いが続く〜 『千と千尋の神隠し』


千と千尋の神隠し

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公開から一週間。宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』が大ヒット中である。配収108億円を稼ぎ出し、日本記録を樹立した『もののけ姫』(1997年)を凌駕(りょうが)する勢いというからすごい。宮崎・ジブリブランドの絶大な信用からだけでは測れない動員ぶりである。

舞台は、宮崎作品には珍しく現在の日本。そして主人公は、10歳の女の子、千尋。等身大の女の子がヒロインというのも珍しい。ナウシカ(1984年)や『魔女の宅急便』(1989年)のキキ、『もののけ姫』のサンのように、特殊な能力と美しさを併せ持ったヒロインが大半である。唯一、『となりのトトロ』(1988年)のサツキとメイが等身大といえるが、彼女たちは、明朗、快活、そしてかわいらしい。すなわち、大人の望む子供像といえる。この点で今回の千尋は大きく異なる。

物質的に恵まれ、何不自由なく育ったひとりっ子。察するに、両親は教育熱心で、スポ少やPTA活動にも率先して取り組むタイプで、絵に描いたような幸福そうな家族である。ところが、千尋は何が不満なのか(本人もわからない)、常にふてくされ顔で、表情に乏しい。消極的で後向きな女の子。これこそ、今、どこにでもいる等身大の女の子である。

千尋は両親と共に不思議の町に迷い込むが、ひとりぼっちになってしまう。そこは、さまざまな神や妖怪(ようかい)たちが、病気や傷を癒しにくる温泉町。この町を支配するのは、強欲な魔女・湯婆婆。頼る者のいない状況下では、千尋は湯婆婆の経営する湯屋で懸命に働くしか、生きる道はなかった。

巨大な温泉旅館のような湯屋で働く千尋は、『五番町夕霧楼』(田坂具隆監督・1963年)の遊郭で下働きする少女のようであり、『ああ、野麦峠』(山本薩夫監督・1979年)の女工にも重なる。千尋の惜しまぬ努力を範とするよう、湯婆婆が評価する場面では、『幕末太陽傳』(川嶋雄三監督・1957年)の佐平次が重なる。

映画の入り口は、確かに今の日本なのだが、千尋が放り込まれた不思議の町は、日本のような、中国のような、明治のような、昭和初期のような、そんな宮崎ワールドが広がっているのである。のっぴきならない事情から、さまざまな出会いや体験を重ねるうちに、千尋は自ら他人のために危険を顧みず行動するまでになる。あの自己中でふてくされ顔の女の子が、表情まで変わって見えるから不思議である。

宮崎監督は、「子供は外で遊ばなくなった。実際に触れて体験することなく、バーチャルな映像の世界に時間を費やし、体験した気になっている。自分が作っているアニメーションも、子供から貴重な体験を奪っているのではないかというジレンマがある」と吐露。子供には、もっともっと楽しさと喜び、無限の可能性があるはずという、宮崎監督の強い想いをたたき込んだ作品。

元気な子、やんちゃな子、おなかを抱えて思いっきり笑う子…。そんな子供と出会わなくなって久しい。それは宮崎監督の今回の最大の動機づけなのだろうが、私は最近、2本のドキュメンタリー映画で続けざまに、そんな元気な子供たちと出会うことができた。

埼玉県桶川市の無認可保育園の百人の子供が、自然の中で伸びやかに育つ様子を、5年間記録した『こどもの時間』(野中真理子監督)。そして、北海道札幌市の民間共同学童保育所「つばさクラブ」の学童・指導員の4年間をとらえた『こどものそら』(小林茂監督)。これは「放課後」「自転車」「雪合戦」の三部構成。健常児と障害児が自然に解け合っている、この「つばさクラブ」は、何より子供のエネルギーに満ちあふれている。

共に、今の子供をとらえたこの2作品は、子育てや教育のある方向性を示してくれる。「元気でやんちゃな子がこんなにいるじゃない」とうれしくなる映画たちだった。

2001年7月27日 (敬称略)