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渥美清さん安らかに 最後まで「寅さん」演じる


男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 (特別篇)

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渥美清さんが4日に亡くなっていた。その死は、7日午後に突然報じられた。"寅さん逝く""寅さん永遠に""寅さん天国へ旅立つ"……。

渥美さんの死は「男はつらいよ」の車寅次郎の死を意味していた。28年間、全四十八作で寅さんを演じ続けた渥美さんは、映画ファンにとって、いつの間にか寅さんとイコールになっていた。その事実をだれよりも理解していた渥美さんは、がんを五年前に告知されているにもかかわらず、病気のことは伏せたままで五作品で寅さんを演じ切っていた。動きや、表情、声に老いは隠せなかったものの、六十代後半ならば無理からぬことで、がんにむしばまれているとはゆめゆめ思いもよらぬことだった。

そして、故人の遺志により、死の事実は、家族の胸の中にだけ納められた。渥美さんの死が、映画会社松竹に伝わったのは、6日夕方の「男はつらいよ」(次回四十九作目)打ち合わせの揚に入った渥美夫人からの電話によってだった。山田洋次監督をはじめ、松竹の幹部も、そこで初めて、"渥美さんの死"を知るのである。亡くなってから丸2日が経過していた。

余談になるが、私は5日昼に松竹本社を訪れ、いつも通りのエネルギッシュな奥山和由専務(この人が7日に公表)と会っているし、山田監督の新作「学校U」の試写会では、奥山融社長と同席している。今から思えば、その前日には、渥美さんが亡くなっていたのだが、もし、彼らがその事実を知っていたなら、試写会は中止になっていただろうし、松竹本社並びに劇場全体が喪に服していたことだろう。"敵を斯くにはまず味方から"という故事のように(だれが敵という訳ではないが)ファンの"寅さん"に抱いているイメージを守り抜くために、山田監督、松竹、親戚(せき)をも欺くという徹底ぶりだった。

渥美清という役者さんは、寅さんを演じてから人気が出た訳ではない。10代後半から20代は、浅草軽演劇の花形喜劇役者として人気を博す。後半、結核を患い三年間の入院生活を送るが、復帰後、草創期のテレビ界に進出。60年代には、NHKのバラエティー番組「夢で逢いましょう」では、谷幹一E・H・エリック藤村有弘らとコントを演じ、お茶の間を爆笑の渦にし、フジテレビ「大番」など主演ドラマも多数あり、60年代の喜劇界を同年代の藤山寛美(故人)、植木等フランキー堺(故人)らとともに支えた若手のリーダー格だった。映画も「拝啓天皇陛下様」(63年)など、10本以上に主演している。

「男はつらいよ」は、そんな人気喜劇役者、渥美さんの数ある主演作の中のテレビシリーズ(68年)に過ぎなかった。しかし、最終回で、寅さんが、奄美大島でハブにかまれて死ぬや否や、抗議の電話が殺到し、助命嘆願に応じる形で翌年(’69年)の映画化となったのだった。しかし、その段階で、これほど続く人気シリーズとなるとは、だれも予想してはいなかった。

寅さんが、奄美大島で死んだことがきっかけで始まった映画シリーズが幕を閉じることになった四十八作目の舞台も奄美大島。寅さんは、いつも、こんなでき過ぎた話に背を向けてきた。「もう一本あるよ」と。

今回の渥美さんの死は、日本人の心の中に寅さんを永遠のものとするための、最初で最後の、渥美清脚本・演出主演作品だったのではないだろうか。死にゆく苦しみを見せないための四十九作目「男はつらいよ寅次郎、永遠の旅」。マドンナは正子夫人、共演は長男の健太郎さんと長女の幸恵さんによって作られ公開された。

永遠の旅に出た寅さん。旅先でおいちゃん(初代故・森川信さん)、御前さま(故・笠智衆さん)、撮影監督の故・高羽哲夫さんと酒盛りでもして、「国民栄誉賞なんてガラじゃないよ」なんて言っているんでしょうね。そして、渥美清さん、あなたのファンヘのおもいやりは決して忘れません。どうぞ、安らかにお眠りください。そして、ありがとうごさいました。

寅さん
絵:菊地敏明

1996年8月12日 (敬称略)